軍神「岩佐直治」伝

先日妻の叔父さんとお会いする機会がありました。保護司をされていますが聞けばあの岩佐直治中佐の甥にあたるそうです。

私の勤めていた大宮の阪初彦先生は職業軍人で陸軍大佐でした。

暇さへあれば岩佐直治中佐のことを話題にしていました。

恐らく日本がアメリカに勝っていたら東郷神社や乃木神社のように神社に祭りたてられただろうと話していました。

当時の岩佐直治中佐は今で言う西郷隆盛クラスの国民的英雄です。

私の叔父も神風特攻隊で戦死しています。

悲しいお話ですが貴重なお話有り難うございました。

参考までに二度と同じ過ちを繰り返さないように朝日新聞の記事を載せます。

 

1941年12月8日のハワイ・真珠湾沖合で、魚雷を敵艦に発射するため、特殊潜航艇5隻が旧日本海軍の母艦から発進した。乗組員は10人中9人が戦死し、戦意高揚の象徴「九軍神」とされた。中には、前橋市出身の岩佐直治大尉(当時26)もいた。悲劇を繰り返さぬよう、この時代の事実がいまも語り継がれている。

防衛省防衛研究所などによると、特殊潜航艇は全長24メートルの2人乗り。太平洋戦争開戦となった真珠湾攻撃で初めて使われた。国際軍縮会議で主力艦船の保有量を米英の6割に制限された旧海軍にとって、規制に引っかからない「秘密兵器」だったという。

戦後の研究ではほとんど戦果を挙げられなかったとされるが、9人の戦死者の海軍葬が営まれ、東条英機首相が実家を訪れた。それぞれ2階級特進した。

翌年3月に9人の戦死が公表された。潜航艇は攻撃後に母艦に戻る計画だったが、各新聞は「全員生死を超越して攻撃効果に専念し、帰還の如(ごと)きはその念頭に無かりし」(朝日)など、死を恐れず敵に向かった精神をたたえた。

前橋市に生まれた岩佐大尉(死後中佐)は、旧制前橋中学(現前橋高)から海軍兵学校に進んだ。

おいの岩佐直衛さん(84)によれば、戦死の公表後、「軍神」の家を訪れようと、見知らぬ人も含めて毎日数十人が訪れた。その応対で家族は田畑に出られないほどだったという。そうした人々の前では気丈にふるまった大尉の母てるさん(故人)は、かげでは涙をこぼしていたという。

大尉の10歳ほど下だった直衛さんは、志願して海軍の予科練に進んだ。「たとえ死ぬのが嫌でも黙って死に行く。当時は国中がそう思っていた」 木瀬村(現前橋市)の国民学校2年生だった羽鳥安雄さん(77)は「成績優秀で剣道もうまかったんだって」と岩佐大尉の話に夢中になったという。戦死や海軍に憧れ、前橋が空襲に遭っても「いつか神風が吹く」と信じていた。

「東京に帰れる」と戦争の終わりを待つ疎開っ子の同級生をいじめたこともある。米英に勝たずに戦争を終えるなんてとんでもないと思っていたからだ。 戦後、その同級生に手紙を送ったが返事はなかった。「軍国少年だったということは戦争に加担したということ」と悔やむ。

40代半ばから、小学生時代に感じたことや身の回りで起きたことを本や詩集にまとめたり、戦争の話を聞く講演会を開いたりしている。戦争が軍神を作り、それが軍国少年を作ったことを知って、そんな時代を繰り返してはいけないと感じてほしいからだ。

 

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平成23年10月14日(金曜日)

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